2020年11月17日火曜日

正当防衛(自衛)権それ自身が有害なり

 「マーク・トウェインの戦争批判」(中野好夫著『ちくま日本文学全集』)を読んだ。マーク・トウェインと言っても、馴染みのないかもしれないが、『トム・ソーヤーの冒険』の作者と言えば、わかっていただけると思う。彼には、「不思議な少年」という作品もあり、この中の戦争批判部分を紹介している。「人間とはなにか」という作品もあるようで、興味がある。少し長いが紹介する。中野さんは、マーク・トウェインの言葉が「一々身にしみて思い当たる」と書いているが、現在においても、思い当たる。マーク・トウェインが日本の9条を知ったら、どういうだろうか。きっと喜んで賞賛するに違いない。

 戦争というのは、「あるときは王家の人々の私欲のために、またあるときは弱小国を亡ぼしてしまうために、それは戦われるのであり、かりにもなにかきれいな目的で、侵略者が起こした戦争などというのは、人類史のかぎり、まず絶対にない」という。……
 王家などという古めかしい言葉を、多少さしかえれば、内村鑑三の「日露戦争によって私は一層深く戦争の非を悟りました……日露戦争もまたその名は東洋平和のためでありました。……戦争は飽き足らざる野獣であります」という告白や、これはまた意外にも故吉田茂の「近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行なわれたことは顕著な事実であります……正当防衛権を認めるということそれ自身が有害であると思うのであります」などにも、そのまま通じるのではあるまいか
 さて、それではどんな風にして戦争は起こるかについてのサタン、つまり、トウェインの戦争原因論をうかがってみよう。彼はいう。
「もともと
大多数の人間ってものはね未開人にしろ文明人にしろ腹の底は案外やさしいものなんで人を苦しめることなんて、ほとんどできやしないんだ。だが、それが攻撃的で、まったく情け知らずの少数者の前に出ると、そういう自分を出し切る勇気がないんだな。
戦争を煽るやつなんてのに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかって一人としていなかった。ぼくは百万年後だって見通せるが、この原則に外れるなんてことは、まずあるまいね。あっても、せいぜいが五、六人ってところかな。いつも決って声の大きなひと握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。すると、さすがに宗教家どもは、はじめのうちこそ用心深く反対をいう。国民の大多数も、鈍い目を眠そうにこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして、心から腹を立てて叫ぶのだ。「不正な戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない」ってね。するとまた例のひと握りの連中が、いっそう声をはり上げてわめき立てる。これも少数だが、もちろん戦争反対の立派な人たちはね、言論や文章で反対理由を論じるだろうさ。そして、はじめのうちは、それらに耳を傾けるものもいれば、拍手を送るものもいる。だが、それもとうてい長くはつづかない。なにしろ煽動屋のほうが、はるかに声が大きいんだから

 やがては聴くものもいなくなり、人気も落ちてしまう。すると今度はまことに奇妙なことがはじまる。まず戦争反対論者たちは石をもって演壇を追われる。そして、凶暴になった群集の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまうところが、面白いのはだね、その凶暴な連中というのが、実は心の底では相変らず石をもって追われた弁士たちと、まったく考えは同じなんだな —— ただそれを口に出して言う勇気がないだけさ。さて、そうなると、もう全国民 ——(原点にあったて追加した部分) そう、教会までも含めてそうなのだが、いっせいに戦争、戦争と叫び出す。そして、あえて口を開く正義の士でもいようものなら、たちまち蛮声を張り上げて襲いかかるわけだ。まもなく、こうした人々も沈黙してしまう。あとは政治家どもが安価な嘘をでっち上げるだけさ。まず被侵略国についての悪宣伝をやる。国民は国民で、うしろめたさがあるせいか、それらの気休めにこれらの嘘をよろこんで迎えるのだ。こうして、そのうちにはまるで正義の戦争ででもあるかのように信じこんでしまい、この奇怪な自己偽瞞の中でぐっすり安眠を神に感謝することになるわけだな」
 つまり、こうして、つい先だってまでは侵略的挑戦として反対を受けていたものが、あれよあれよというまに正義の戦争ということになって、本格的な戦争がはじまるというわけだが、これもどうやら半世紀前の話とはかぎらないようである。
 わた
したち、満洲事変から太平洋戦争突入までの十年間を体験してきたものにとっては、このサタンの冷笑は一々身にしみて思いあたる。教会ならぬ、マスコミまでを含めて、まさにこの通りであった。近ごろマスコミの街頭録音などで、もはや戦争体験を知らぬ若い戦後世代の諸君が、いとも気軽に、やはり無防備では安心ならぬ、防衛の軍備は必要だと思います、などと答えているのを聞くが、その防衛軍備だったはずのものが、実際にはどのように用いられたか、そして、その犠牲だけを背負わされたのは、国民のどのような人たちであったか、少しくらいは歴史的に勉強してみたことがあるのであろうか。引用したサタンの言葉は見事にそれに答えてくれているように思う。(中野好夫著『ちくま日本文学全集』、p424〜427、強調は引用者による)

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