アウシュビッツの「被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた」ので、彼らにとって「行動的な生からも安逸な生からも」生きる意味を見出すことは不可能でした。だから、逆に「およそ生きることそのものに意味があるとすれば」という問いを発し、「苦しむことにも意味があるはずだ」と、結論するのです。その辺のところは次の通りです。
そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そし不死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった、生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。(『夜と霧』、V.E.フランクル著、池田香代子訳、みすず書房、2002年、p112〜113)
そうは言っても、日常的な苦しみ絶えずやってきました。フランクルはあるトリックを弄しました。
突然、わたしは晧々と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホール」の演台に立っていた。わたしの前には坐り心地のいいシートにおさまって、熱心に耳を傾ける聴衆。そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。今わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される⋯⋯このトリックのおかげで、わたしはこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののように見なすことができ、わたしをわたしの苦しみともども、わたし自身がおこなう興味深い心理学研究の対象とすることができたのだ。
スピノザは『エチカ』のなかでこう言っていなかっただろうか。
「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」(『エチカ』第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」定理三)
しかし未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともは精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。(上同、p124〜125)
これだけでも、すごいことです。しかし、もっとすごいのが「生きる意味」についての、次のような「コペルニクス的転回」でした。
ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。
「生きていることにもうなんにも期待がもてない」
こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(上同、p130〜131、下線は引用者)
私は、この後半を読んだとき、ここにカント哲学の実例を見出していました。カントが言いたかったことは、こういうことだったのか、と一人納得していました。霜山徳爾訳では、義務という言葉を使わないで、「人生が各人にする使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである」(p183)と訳されていました。使命と訳されると、より身近に感じられるかもしれません。
0 件のコメント:
コメントを投稿