まず、読んでみましょう。
キケロは、哲学をきわめるとは死の準備をすることにほかならない、と言った。これはつまり、研究や瞑想が、ある意味でわれわれの精神をわれわれの外に引き出し、肉体と離して働かせるからで、いわば、死の練習、模傲のようなものだからである。あるいは、世のあらゆる知恵と理論が、結局は、われわれに死を少しも恐れないように教えるという一点に帰着するからである。
本当に、理性は、われわれをからかっているか、それとも、われわれの満足だけを目指しているかのいずれかであるにちがいない。また、その努力は聖書にもあるように、結局、われわれをよく、しかも楽しく、暮らさせることを目指しているにちがいない。世のあらゆる意見は、たとえ方法はまちまちでも、快楽こそわれわれの目的であるというこの一点に帰着する。そうでなければ、そんな意見などははじめから追い払われるであろう。実際、われわれの苦労や不幸を目的とする人の言説などを誰が聞くだろうか。(『エセー・1』(モンテーニュ著、原二郎 訳、岩波書店、1965年、p150)
ここの論理で最も気に入った点は、「実際、われわれの苦労や不幸を目的とする人の言説などを誰が聞くだろうか」、それゆえ、「世のあらゆる意見は、たとえ方法はまちまちでも、快楽こそわれわれの目的であるというこの一点に帰着する」という論理は明快です。
また、「世のあらゆる知恵と理論が、結局は、われわれに死を少しも恐れないように教えるという一点に帰着する」とも言っているので、快楽を求めて「研究や瞑想など精神の働きを強化する過程」こそ、死の練習であり、模傲であるというのです。あらゆる哲学的営々も、結果的に詩の練習をしていることになるのかもしれません。だとしても、「死を対象にした考察、研究」も欠かせないことは明らかです。
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