日本中に大きな衝撃を与えた「未解決事件」の真相を徹底検証するシリーズ第10弾。“占領期最大の謎”と呼ばれる「下山事件」に迫る。1949年7月、国鉄総裁・下山定則が突然失踪し、列車にひかれた無残な姿で見つかった。遺体には不自然な点が多く、警察の捜査は「自殺説」「他殺説」で見解が対立。それぞれが独自に捜査したものの、捜査本部は解散。事件は迷宮入りした。その後も、松本清張や著名ジャーナリストたちが繰り返し謎に挑んだが解けないまま70年以上が過ぎた。(「NHKスペシャル 未解決事件 File.10 下山事件 第1部」より)
私は、この番組を見て「下山事件」だけを扱って、その真相を明らかにしようとしているところに違和感を感じました。当時は、三鷹事件や松川事件など似たような事件が発生していました。それらの事件との関連などを考慮しないで、あくまでも単独事件として扱っていたからです。ですから、「歴史的事件相互のあいだにいかなる規則性を見出すか」という視点の重要性を説いた次の記述を知ったときは、「これこそ、求めていた思想である」と喜びました。この視点を持って、「下山事件」だけでなく「三鷹事件や松川事件」なども考慮した考察を試みてみたいです。
一回的な事件同士のそれぞれを、まったく無関係に、その個別性にだけ注目するのでは、お互いに関係なくただ提起するのだったら、歴史の発展には規則性が全然なくなってしまう。別の言葉で言えばそれはカオス、無秩序です。学問的に歴史を把握するというのは、歴史のなかにいかなる秩序を見出すかということです。その秩序が「私」の体験ではなくて、感覚ではなくて、客観的な知的な感情理解の一つとして、歴史的事件相互のあいだにいかなる規則性を見出すか。
自然科学は自然的環境のなかに秩序を見出しますが、その秩序は根本的に因果論的です。ところが歴史的事件の一回性に注目すると、因果論的な秩序を歴史のなかに見つけることは困難です。ヴェーバーは、因果論の代わりに、規則性ではあるけれども非因果論的な規則性を、意図と行為との分析を媒介として叙述しようとしたのです。あることを原因として次の事件がおこるというのではなく――それは原因・結果でしょう、そうじゃなくて、私が何かをすると誰かがまた何かをする。ナポレオン・ボナパルトにしても、東条首相にしても。そういう何かをする人は一定の意図をもってするわけです。(『加藤周一最終講義』、かもがわ出版、2013年、p150〜151)
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