そもそも多喜二に興味を持ったのは、死をも恐れぬ生き方にあった。しかし、死を恐れなかったのが、単なる慣れでしかなかったとしたら、多喜二への興味は半減してしまう。とはいえ、悪政への怒りと、その悪政に苦しむ労働者への愛、そこに自らの生きがいを見いだせた多喜二は幸せだったに違いない。多喜二にとって、戦うことは生きることそのものだったのである。
よく言われることに、多喜二は、日本共産党の党員だったから、死をも恐れぬ生き方ができた、という意見もある。しかし、それは違う。悪政と戦い、そうした体験をもとに小説を書く生き方に自らの生きがいを見いだせたからこそ、死をも恐れず、勇敢に戦うことができたのである。こうした多喜二の生き方が現代の我々に教えることは、本気になれる生きる対象を見出すことではないだろうか。そこに、死を超越した生き方がある、と思うのである。
その一方で、死を超越したければ、心の内面を見つめて、心の平安を求め、築いていく生き方もあるような気もする。テレビを見ていたとき、「心のなかに庭園を築く」というような言葉が耳に入り、その言葉が気になって仕方がなかったのである。
物を捨て、執着心を捨てられれば、まずは心も軽くなるような気がするけれど、それだけではどうしようもない。詩人や哲学者などの先人に学ぶことなしには到達できない境地かもしれない。ただ、時間感覚や命に対する感覚の変遷を調べることで、何かがわかる、そんな予感はするのだが。
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