2021年7月21日水曜日

まずは立憲主義、日本国憲法の徹底を

 日本の戦争責任問題は、曖昧にされたまま今に至っている。戦争に対する無責任体質が原子力発電所の事故責任に引き継がれてしまったとさえ言われてきた。安保体制はもちろんのこと、象徴天皇制についても、あたかも既定路線の如くみなされ、まともな批判は皆無に等しくなってしまったのではないだろうか。私自身、「九条があれば・・・」という安易な気持ちになっていた。しかし、強烈な批判文を知り、少し考えがぐらついてきた。特に「現在の学者、言論人も、(中略)天皇制に対し、今度は沈黙することにより、戦争中と同じあやまち —— というよりは同じ卑劣な行動をとっている」(日本の戦争責任 』、若槻泰雄著原書房1995年、p224、強調は引用者による)という考えが応えた。そういう意味では、皇室報道を特別扱い(そうみえる)しているマスコミも同罪ではないか。
 「天皇制の問題を度外視したところで、戦後処理を論ずることは、ごまかし以外の何者でもない」(同上、p246)ように、「天皇制の問題を度外視したところで、平和の問題を論ずることは、ごまかし以外の何者でもない」のかもしれない。それゆえ、平和の問題は天皇制の問題とセットで考えていく必要があるようだ。

 日本人はみずからの歴史を解明する勇気さえ待たず、それをうやむやのうちに葬り去ろうとしている。そんないい加減な国民が「自由主義だ」「民主主義だ」、そして「世界の平和」がどうのこうのという資格があるのだろうか。
 現在の学者、言論人も、彼ら自身、あるいは彼らの先輩が、戦争中には「神だ」「神国だ」とあがめ奉っていた天皇制に対し、今度は沈黙することにより、戦争中と同じあやまち」というよりは、同じ卑劣な行動をとっている。
 ”単独講和反対”″反基地闘争””反安保””ベトナム戦争″″反原爆実験(アメリカに対してのみ)””反自衛隊”あるいは抽象的な”平和”を叫ぶことより、日本国が犯した戦争の責任の所在を徹底的に糾明することの方が、まず、そしてはるかにたいせつではないのか。彼らの言動は、もっともらしいことをいっている風をみせることによって、最重要事に言及することを避けているとしか考えられない。
 戦時中の言論人とまったく同じように、彼らはその地位と収入を守るために、天皇制の責任追及をおこたっているのである。(同上、p224)

 だがしかし、憲法九条が機能し、天皇も憲法を遵守している限り、天皇の問題は後回しでもいいような気もする。実際に、憲法が蔑ろにされながらも、ギリギリのところでしっかりと機能してきたからである。 一時は「平和の問題は天皇制とセットで」と考えたが、優先順位としては、立憲主義の徹底であり、日本国憲法の徹底である。

0 件のコメント:

コメントを投稿