2020年9月19日土曜日

生贄の思想が生きている日本

 スペインのアラゴンや中世ヨーロッパで知られている生贄伝説がある。ある王国に、毒を吐き、人を襲う龍がいた。人々は羊の生賢を捧げていたが、ついに王の娘を差し出すことになってしまう。そこへ青年ゲオルギウスが通りかかり、龍の口に槍を突き刺し、姫の帯を龍の首につけ生け捕りに成功する、そんな話である。このように、みんなを助けるために生贄を差し出す話は世界にあった。
 戦争中は、ある意味では国に命を捧げた生贄のようなものである、そう思ってきた。戦後になっても、国の犠牲になる人たちが絶えなかった。在日米軍基地周辺で、軍用機の低空飛行による騒音などの危険に晒されてきた人たちが典型である。この人たちも、生贄のようなものである、そう思ってきた。
 なんと、同じように考えていた人がいた。しかも、しっかりとした根拠も示している。嬉しかった。次のように書かれていたのだ。

 「戦争を、いつの時代、どこにでもある諍(いさか)いの延長、国家間の喧嘩と考えるのでは不十分である。ひとりの変質者による傷害や殺人でも重大事件であるのに、桁違いの大量殺戮と破壊が合法とされ、裁かれることがない点にこそ戦争の本質がある。なぜこのような不思議な無法状態が放置されつづけているのだろうか。それは、民主制と法治といわれる現在においてもなお、国家という存在自体が、民衆を犠牲(生贄・人柱)として献げることを通じて生き続けるという、古代宗教国家時代からの野蛮な側面を克服しえていないからである」(『石川九楊著作集別巻III』、p334、強調は引用者による)

 今現在も、基地があるゆえに苦しんでいる人たちがいる。桁違いの騒音や、嫌な振動などを想像し、その苦しみを想像して、1日でも早く、苦しみから開放されるよう、微力ながら力を尽くしていきたい、そう思った。

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