2020年9月29日火曜日

米軍による先住民強制移住の実態

 マーシャル諸島と言えば、米政府が島の全住民を強制的に移住させ、核実験を行ったことで有名だ。米政府は1946~58年にかけ、マーシャル諸島の小さな島々で67回もの核実験を行っていたのだ。しかし、米政府による強制移住は、これだけでなかった。『米軍基地がやってきたこと』に、米政府による強制移住の生々しい報告があった。島民の人権など省みない「問答無用」の処置に、ただただ呆れ、怒りを感じずには居れない。
 ”一事が万事”という諺がある。米国は、近代にもなっても、こうした植民地時代の感覚を引きずっているとしか思えない。以下、少し長い引用だが、紹介する。なお、強調は引用者による。このような米軍とは、1日も早く手を切り(安保条約を解消し)、対等な日米関係を築いて欲しいものである。

 一九五〇年代後半、米海軍はチャゴス諸島にあるイギリス領ディエゴ・ガルシアに新しい基地を建設する計画を立てていた。イギリス当局との話し合いのなかで、米国防総省と国務省の交渉担当者たちはチャゴス諸島の「独占的支配(住民は排除)」を求めた。
 こうして住民には退去命令が出された。一九六八年から一九七三年の間に、米英政府はディエゴ・ガルシアの先住民全員を強制的に立ち退かせ、故郷から二〇〇マイル離れた西インド洋のモーリシャス諸島やセーシェル諸島に移送したのである。
 追放されたチャゴス島民たちには新たな地で定住するための支援もなかった。強制排除されてから数十年たった今でも、そのほとんどがモーリシャスやセーシェルの貧困層の底辺に留まり、外から訪れる人たちからは異国情緒豊かな観光地や新婚旅行先として知られる場所で、生き延びるのに必死な状況にある。チャゴス島民から故郷を奪った米軍は、ディエゴ・ガルシアに「自由の足跡」というニックネームをつけている。(『米軍基地がやってきたこと』、デイヴィッド・ヴァイン著、原書房、2016年、p8182)

 イギリスの業者は米海軍のシービー船の助けを借り、島民の飼い犬を捕らえることから立ち退き作業を開始した。倉庫に閉じ込められた飼い犬が毒ガスで殺され、焼かれるのを見て、チャゴス島民は恐怖に震えた。残っていたチャゴス島民はすし詰め状態の貨物船に乗せられた。立ち退きは一九七三年五月まで段階的に行われ、移送される間、チャゴス島民のほとんどは船倉のグアノ ―― 肥料用の鳥の糞 ―― の上で眠った。馬は甲板の上で身動きもできず、五日間の旅の終わりには、あちこち吐しゃ物、尿、糞便だらけになっていて、少なくともひとりの女性が流産した。この状況を奴隷船に例える人もいた
 モーリシャスやセーシェルに着くと、チャゴス島民のほとんどはそのまま桟橋に置き去りにされた。住む家も仕事もなく、持ち金はごくわずか。ほとんどが、身の回りの物を入れた箱ひとつと敷布団一枚をもってくるのが精いっぱいだった。最後の立ち退きから二年たった一九七五年、西側の報道機関として初めて、「ワシントン・ポスト」紙がこの話を暴露した。ある記者は、新聞で報じられた「大最誘拐行為」の被害者たちが、「極貧」生活を送っていることを突き止めた。
 オレリー・リゼット・タラーテは、最後に鳥を離れた島民のひとりだった。「私は六人の子供と母親と一緒にモーリシャスに来ました」とオレリーは言った。この家族がモーリリシャスに着いたのは一九七二年末だった。「ボワ・マルシャン幕地のそばに住まいを見つけたけれど、家にはドアがなく、水道も電気もありませんでした。人が生きていけるような状況ではなかったのです。そうして私たち家族の苦しみが始まりました。子供たちはみな、すぐに病気にかかってしまいました」モーリシャスに着いて二か月と経たないうちに、ふたりの子供が死んだ。埋葬費用が工面できず、二番目の子は募標のない墓に埋められた。「もうお金がなかったんです。役所の人があの子を理葬し、今も、とこに埋められたのかわかりません」オレリー自身も失神の発作を繰り返し、食べることができなかった。
 故郷にいたころは「太っていたが、モーリシャスに着くと瞬く間にやせ細ってしまったという。「私たちの暮らしは動物並みです。土地?そんなものはありません⋯⋯仕事? ありません。子供たちは学校にも行けないのです」レリーは言った。チャゴス鳥民はほとんどすべてのものを失ったのだ。たまたま米海軍が欲しがった島に住んでいたというだけの理由で。(同上、p88〜89)

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