2020年8月22日土曜日

日常化してしまった非日常

『基地の子 この事実をどう考えたらいいのか』(清水幾太郎他編、光文社、1953年)という本がある。編集の言葉で、「この狭い日本の中には、六百いくつかのアメリカ軍事基地があります。そして、どなたもご存知のように、これらの基地の周囲には、いろいろの面倒な問題が起きております。この『基地の子』という書物は、基地の付近に住む子供達の観察と感想を盛った文章を集めてできたものであります」とあった。
 軍事基地周辺で面倒な問題を抱えているのは、なくなったわけではない。今でも、軍用機は飛び交っているし、実弾演習もしている。しかし、私を含め、多くの日本人は、そうした問題と無関係に、あたかもそんな問題はないが如くに生きている。
 そして、「核の傘は必要だ」とか「安保条約があったから今日の繁栄がある」などと、平気な顔で、本気になって思い、発言している人が多くいる。日常が非日常になることの恐ろしさを、毎年のように襲ってくる自然災害によって、あるいは、今回の新型コロナ問題で思い知らされた。
 しかし、軍事基地周辺周辺の人たちにとっては、「非日常が日常化」してしまったのだ。何度申し入れても、夜間飛行をやめない、という声もある。アメリカ本土では決してしない、ありえない生活圏上空の低空飛行も、なくならない。まさしく「非日常の日常化」である。そうした日常化してしまった非日常というものを想像してほしい。それは、考えようによっては拷問に等しいではないか。
 こうして書いているうちに、軍事基地周辺周辺の人たちに申し訳ない、今まで、ほっておいて、申し訳なかった、と思った。そういえば、授業中に軍用機が飛ぶと窓は振動し、授業にならない、と読んだことがあった。しかし、すぐ忘れてしまった。もし、例えば息子が転勤になって孫がその学校に転校になったら、それでも、忘れてしまうだろうか。そんなことはない。やはり、「非日常の日常化」は、あってはならない。

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