2020年8月21日金曜日

重慶爆撃はまだ時効になってはいない

 恥ずかしい話だが、一九四八年、国連総会で採択された「ジェノサイド条約」 (集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約)のことを最近知った。

「歴史上のあらゆる時期において集団殺害が人類に多大な損失をもたらしたことを認め、このいまわしい苦悩から人類を解放するために国際協力が必要であると確信し」
 という前文をもって結ばれた「ジェノサイド条約」は、集団殺害の定義を、「国民的、人種的、民族的又は宗数的な集団の全部又は一部を破壊する意図をもって行われた行為」とし、「集団殺害が、 平時に行われるか戦時に行われるかを問わず、国際法上の犯罪であることを確認し、これを防止し処罰することを約束する」と協定していた。
 この条約は、直接的にはナチス・ドイツの行ったような「人道に対する罪」を防止し処罰するためのものであるが、戦略爆撃の罪科がここから除外されるいわれは全くない。ゲルニカ → 重慶 → 広島の歳月を貫く一本の糸は、まぎれもなく「集団殺害の意図」そのものであり、レオ・クーパーのいうように、「広島と長崎への原爆投下は、絶対的なホワイトカラーの技術的ジェノサイドを代表するもの」にほかならないからである。 (前田哲男著「戦略爆撃の思想 ゲルニカ → 重慶 → 広島への軌跡」『Asahi journal』1987年12月25日号 朝日新聞社、p46)

「全面戦争へと向かう戦争の性格の変化と、多数の人間を即時に殺戮するための技術的諸手段は、ジェノサイド的争いに導く状況を作りだす。この可能性は、ドイツが支配をめざす戦争でジェノサイドを用い始めた第二次世界大戦において現実のものとなった。しかし私は、その用語はアメリカによる日本の広島、長崎両市への原爆投下にも、また連合国によるハンブールグ、ドレスデンのような町々へのじゅうたん爆撃にも適用されねばならないと考える」(『ジェノサイド』)とクーパーは書いている。(同上、p46)

 それでも、ジェノサイドはなくならない。ベトナムはその典型かもしれない。次のようにか紹介されている。

 北爆は、北のすべてを目標とすべきである。爆撃する以上、相手を灰燼に帰すまで徹底的に爆撃すべきである。「爆撃に爆撃を加えて、彼らを石器時代に引き戻してやるのだ」。D・ハルバースタムはルメイの発言をこう記している。ベトナム戦争で使用された爆弾の量は七年間に一三〇〇万トン、これはマリアナの米軍が日本の全土に投下した爆弾一五万四千トンのじつに八四倍にものぼる。ボール爆弾、パイナップル爆弾と名づけられた新手の対人殺傷兵器も登場してきた。(同上、p48)

 ベトナム人を人間とは思っていないような発言である。ジェノサイドに背景には、有色人種への根強い差別意識があることは間違いない。プラス、武器商人の存在である。だからこそ、次のような「地球を乗っ取り、人類を人質とした核抑止戦略」が、いまだに支配的なのだ。それにしても、「人類を人質とした核抑止戦略」とは、よく言ったものだ。


 一九八七年。戦略爆撃の思想は、米ソ保有の各一万発を超す「戦略核弾頭』によって、地球と人類の運命をその手中に握り釘づけにし続けている。増大する危機と破局の前兆を目にしながら、脱却への歩みは急速には進まない。たとえ米ソ両国に戦略発動と兵器使用の意思がないにしても、地球を乗っ取り、人類を人質とした核抑止戦略下の歳月に生じた退廃と虚無の広がりを止めるのは容易ではなくなった。(同上、p48)  

 最後は、日本軍による「空からのテロリズム」に言及していた。

 核保有国のみならず日本もまた、みずからかかわった空からのテロリズムの歴史を直視することなしに、彼らを裁く道義的資格はもっていない。無差別大量殺戮史における「失われた環」である重慶爆撃は、その意味でもまだ時効になってはいないのである。=おわり(同上、p48、強調は全て引用者による)  

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