さらに黒田氏は、憲法改正を主張している主体について論述していますが、今までにない主張でした。つまり、「社会の現実は決して真の民主化が徹底しているわけではなく、一部の人びとが国民全体の名を借りて自己の野望を達成せんとして、そこにあらゆる画策の展開されつつあるのが現情である。こういう現実に対する不信の念がすこしでも残っているかぎりは、いかに主権者の名目をもってしようとも、それに勝手気ままな無制限の改正をみとめることは、はなはだ危険というのほかない」というのです。60年も前の本ですが、決して古びていません。
また黒田氏は、憲法の明文で改正の限界を定めた実例も紹介しています。大いに参考にすべきことだと思います。
憲法は、・・・もともと国政の民主化によって、国民の自由・人権を擁護せんがためにこそ生まれ来たったものである。したがって、もし民主主義を否定し、人権尊重主義を否定するような憲法改正をも無制限にみとめられるとの立場を採るならば、それは憲法そのものの否認であり、憲法の自壊自減をもみとめよということになる。いかに主権者といえども、そのような個性をうしなわしめる自殺行為を合憲的に企図しうるであろうか。主権者が真に主権者たるかぎり、その主権的意思にもとづいてつくった憲法で、このように非民主的な改変をみとめる筈のないことは論理的に明らかである。加うるに、抽象的・理念的には、主権者といえば万能の権利を有するものとの解釈が成り立ちうるかも知れないが、「国民主権」の考察に際して述べたように、社会の現実は決して真の民主化が徹底しているわけではく、一部の人びとが国民全体の名を借りて自己の野望を達成せんとして、そこにあらゆる画策の展開されつつあるのが現情である。こういう現実に対する不信の念がすこしでも残っているかぎりは、いかに主権者の名目をもってしようとも、それに勝手気ままな無制限の改正をみとめることは、はなはだ危険というのほかない。『学習憲法学』、黒田了一著、法律文化社、1959年、p355〜356)
たとえば、とくに憲法の明文で改正の限界を定めるものとして、フランス第四共和国憲法は、イタリア憲法(第一三九条)とほぼ同様に、「政府の共和的形式は、これを改正の目的とすることはできない」(第九五条)とし、西ドイツ基本法もまた、「連邦が諸邦から構成されているということ、立法についての邦の基本的協力、または第一条および第二〇条に規定されている基本原則に触れるような基本法の変更は許されない」(第七九条第三項)と定めている。さらに、より一般的な改正の限界を定めたものとしては、ノールウェー憲法(第一一二条)があり、そこでは憲法の基本原則に反する改正をいっさい禁止し、憲法の改正はただ憲法の精神を変更しない範囲における個々の条項の修正だけに限られるべきことを規定している。(上同、p356〜357)
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