例えば、内田樹訳と浜野卓也訳は単なる訳で、島内裕子訳が意訳でした。最後の文を例示してみます。
「寛大で限界を持たなければ、喜怒が障りとなることもなく、物に煩わされることもない」あるいは、「人間が寛容で、心にせまいわくをつくらないときは、喜びもいかりも、その本性のじゃまにはならず、他人のためにわずらわされることはないのである」が単なる訳で、島内裕子訳の「寛大で、どこまでも広ければ、喜びも怒りも、心の障害物とはならず、外界によって、煩わされることがなく、のびやかである」が意訳です。原文は「喜怒、これに障らずして、物の為に煩わず」で終わっているからです。にもかかわらず、訳者の言葉「のびやかである」が挿入されたことで、文章全体が活きてきました。
島内裕子さんは、引用した解説で『徒然草』の著者”兼好”にも言及しています。これだけ”兼好”について熟知しているからこそ、意訳も素晴らしいものになっていると思います。
心を働かせる時も、心の幅を狭めて、厳しく凝り固まっていると、ものごとに逆らって、争いとなり、破滅するものだ。心の働かせ方が緩やかで、柔軟な時は、ほんの少しも傷が付かない。
人間は、天地の中で、万物の霊長であって、天地は無限に広がっている。だから、人間の心も、天地と異なることがあろうか。寛大で、どこまでも広ければ、喜びも怒りも、心の障害物とはならず、外界によって、煩わされることがなく、のびやかである。(『徒然草』、島内裕子訳・著、ちくま学芸文庫、p494)
ただし兼好は、世の中の頼みがたさの認識だけでなく、後半で、よりよく生きるための心の持ち方も示唆しており、対処法にまで思索を深めている。硬直した精神ではなく、柔軟な精神が、人間本来のものであるとする結論は、兼好がみずからの心のありかたを述べたとも言えよう。(上同、p495)
気づかいが足りず、狭量であれば、あちこちで衝突を繰り返し、争っては敗れる。寛容で柔和であれば、何一つ損じることがない。
人は天地の霊なり。天地の間は無限である。人の本性もまたそれと同じはずである。寛大で限界を持たなければ、喜怒が障りとなることもなく、物に煩わされることもない。(内田樹訳『日本文学全集_7』、池澤夏樹編集、河出書房、p473)
人間の心というものは、ゆったりとひろければ、それをさまたげられることはない。気くばりが少なくて、しかもきびしいばかりだと、なにかと人にさからって、あらそい傷つくことが多い。心がおおらかで、柔軟に事を処理するときは、毛筋一本もそこなうことがない。
人間は、天地のあいだにあるものでもっとも尊い存在である。そして天地は大きなものである。とすると、天地の中で、もっとも尊い存在である人間の本性も、その天地の心と一致しなければならない。
人間が寛容で、心にせまいわくをつくらないときは、喜びもいかりも、その本性のじゃまにはならず、他人のためにわずらわされることはないのである。(『21世紀によむ日本の古典_9_方丈記・徒然草』、浜野卓也著、ポプラ社、2001年、p164〜165)
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