小説『モモ』によると、モモに話を聞いてもらうだけで「ひっこみじあんの人には、きゅうに目のまえがひらけ、勇気が出てきます。不幸な人、なやみのある人には、希望とあかるさがわいて」くるというのです。それは素晴らしいことです。
ここで、一つの問いが生まれました。本当に”モモに話を聞いてもらうだけ”だったのだろうか、という疑問です。”聞く”と”きゅうに目のまえがひらけ、勇気が出てくる”の間に何か、ワンクッションかつうクッションがあったのではないか、という問いです。再読し、”聞く”から”きゅうに目のまえがひらけ、勇気が出てくる”過程がどうなっているのかを調べてみたいです。
振り返ってみると大学や職場でも話す訓練は多少なりとも行ったが、聞くという営みを深化させることはほとんどなかったように思う。効果的なプレゼンテーションを会得する機会はあっても、創造的に聞くことを問い直すことはあるときまでなかった。
人は思ったことすべてを語ることはできない。すべて語れたと感じるとき、省みてみるべきは「おもい」の深さと浅さかもしれない。
聞くという営みが創造的に行われるとき、それは問いという形で顕現する。ある人が何かを語る。それを聞き、問う人の言葉が、語られた言葉の意味を深めるのである。昨令、リーダーと呼ばれる人たちは、自分のおもいを流暢な言葉で語るのに長けているが、深く聞けているかには疑問が残る。
語学力、語彙力、表現力など私たちはさまざまな能力を身に付けてきた。聞くことにおいて働くのは、表現力というときの力とは性質が異なる「ちから」である。「力」には積極的、あるいは能動的な響きがある。聞くことにおいて求められるのは、単なる能力ではなく、創造的受動性と呼びたくなるような「ちから」なのである。
(中略)
ドイツの作家ミヒャエル・エンデの代表作『モモ』(大島かおり訳)」には次のような一節がある。主人公のモモは、さほど大きな能力を身に宿してはいなかった。しかし、聞くという点においてはおよそ異能と呼ぶべきちからを有していた。モモに話を聞いてもらうだけで「ひっこみじあんの人には、きゅうに目のまえがひらけ、勇気が出てきます。不幸な人、なやみのある人には、希望とあかるさがわいて」くるのだった。(若松英輔著「創造的に聞く〜ミヒャエル・エンデ『モモ』」『日本経済新聞』、2024年2月10日)
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