確かに、「南北関係」を持ち出さなくても、在日米軍を通じて加害者であり続けたではないか。米軍と一体になって軍事訓練をしたりして共同歩調をとっている。ベトナム戦争では、在日米軍基地が大活躍していること一つとっても、日本人は間接的加害者であり続けた証明であろう。間接的加害者の視点をもっと強調すべきときなのかもしれない。
高柳先男は「平和像の転生を求める」と題する論文の中で次のように述べる。「反戦=平和の図式がむしろ『北』中心の平和であり、『北』の平和が維持されることによって、『南』での紛争が絶えず、そればかりか『南』に対する『北』の収奪と抑圧がおしすすめられ、『平和ならざる状態』を再生産するという構図がしだいに顕在化してきた」と(『世界』1976年4月号、p159)。 つまり、ことになるというわけである。「構造的暴力」とはJ・ガルトゥングによれば、暴力の主体を名ざすことの難しいものを指し、その場合の「暴力」とは「外からの働きかけのために人がその肉体的、精神的能力を本来的な程度よりも不完全にしか発揮できない場合にそこに存在するもの」を意味している(上同、p163)。このような視点からみるならば、日本は直接的に戦争の主体となっていないにもかかわらず、その経済的進出により、あるいはアジア諸国の軍事化(それは国内における権威主義的抑圧強化を伴う)に対して「援助」を通じて間接的に貢献することによって、「平和ならざる状態」(すなわちその国の人がその可能性を不完全にしか発揮できない状態)を生み出していることが明らかになる。このように、現実に日本は、広義の「平和」に対する脅威を与えているにもかかわらず、単に「戦争のない」=「平和」な状態を享受することに満足しているのが、多くの日本人の現状である。「平和」への脅威は、前に述べた形で現にあるだけではなく、次の二つの意味でいよいよ大きくなろうとしている。すなわち日本自身の軍事化の進行(毎年の軍事費の増大が今やGNP 1%枠という歯とめなしに行なわれようとしている)が、それ自身国際的な緊張を強めるという意味でも、また日本国内で軍事化に伴う秘密の増大などによって戦争への民主的な規制力を弱めるという意味でも、「平和」への脅威を強めている。(『日本の政治と言葉・下』、石田雄著、東京大学出版会、1989年、p122〜123)
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