専制政治は権力による政治である、上に絶対の権力を有する者があって国民を支配し、国民はその権力の下に服従するを要するものとせらるることが、専制政治の根本思想をなしている。国民はただこれに従うことを命ぜらるるにとどまって、これを批評し論難することを許されない、民をして依らしむべく知らしむべからずとは、すなわちこの思想を言い表わしているものである。
立憲政治はこれに反して民衆的の政治である。政治が国民の意向に従い、国民の諒解を得て行なわるるを要することが、その精神の存するところである。その結果として、事の性質の許すかぎりは秘密政治の主義を排し、政治がすべて公然国民の前に発表せられ、国民はモの是非を批評し論議することができなければならぬ。(『現代日本思想体系・3・民主主義』、家永三郎編集解説、1965年、p280)
しかし、美濃部達吉の主張する立憲主義は、専制君主政と区別されたと言えども、次のような立憲君主制であった。
立憲政治は国民の翼賛による政治である。統治権は君主これを専行したまうのではなく、国民の同意を得て行なわせらるることが、立憲君主政の専制君主政と区別せらるる第一の要点である。
立憲政治の根本義は民衆政治すなわち万機これを国民の公論に決するの政治にあるのであるが、ただ国民がみずから統治を行なうことは、わが固有の君主主義と相両立し得ないものであるから、わが憲法はもとより国民がみずから統治を行なうことの主義をとらず、統治権はすべて君主または君主の機関によってのみ行なわるるものとし、ただその統治権を行なうについて国民の意向にしたがって行なわるべきことを要求しているのである。言い換うれば、立憲君主政治は君主主義の骨駱の中に民衆政治の精神を包むもので、君主が民の心をもって心とし、それによって統治を行なうことが立憲主義の要求である。(『現代日本思想体系・3・民主主義』、家永三郎編集解説、1965年、p279)
ここで問題なのは、「立憲君主政治は君主主義の骨駱の中に民衆政治の精神を包む」とか「君主が民の心をもって心とし」といったことは、彼の観念上での願望に過ぎなかったことである。「君主が民の心をもって心と」することなどあり得なかったことでもわかる。これが彼の思想の限界なのであろう。
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