まず、「こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった」とあり、ついに、 「八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋の小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから、豆腐の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。
目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆に立働いた。(中略)
翌年春、魚芳は入営し、やがて満州の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し寮養生活を送るようになったが、 妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。・・・」
目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆に立働いた。(中略)
翌年春、魚芳は入営し、やがて満州の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し寮養生活を送るようになったが、 妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。・・・」
こうして、歯が抜けるように、次々と「妻」の周りから戦地へ、と姿を消している。これでは、妻の生活はどうすればいいのか、と「銃後の生活」というものを心配してしまった。そして、戦争推進(美化)勢力が作成したポスターを思い出した。
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| (『プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争
135枚が映し出す真実』
田島奈都子編著
勉誠出版、2016年)より
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魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな包丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。 —— こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。
私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、 台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日、八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋の小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して『興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊の姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好がおかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋の小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから、豆腐の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆に立働いた。(中略)
翌年春、魚芳は入営し、やがて満州の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発剰し寮養生活を送るようになったが、 妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。(「翳(かげ)」より)

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