2020年1月11日土曜日

創造者の求めるのは道づれであり・・・


 ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読んでいたら、だんだん難しくなってきた。「わたしが愛するのは、おのれの徳を愛する者である。なぜなら徳は、没落への意志(?)であり、あこがれの矢(?)であるから。」『ツァラトゥストラはこう言った』、岩波文庫・上、P19〜20、?は引用者)という具合である。
 そしたら、ニーチェ自身が、「かれらはわたしの言うことを理解しない。わたしはこれらの耳に聞かせる口ではない」同上、P21〜22)と書いており驚いた。それでも、大筋は何と無く分かり、途中で「キラリと光る言葉」を発見できることがわかった。例えば次のような・・・。

 ァラトゥストラはじっと立っていた。かれのすぐそばにその身体は落ちてきた。むざ
んに打ち砕かれていたものの、男はまだ死んでまいなかった。しばらくすると、この砕かれた男に意識がもどってきた。そしてかれは自分のそばにァラトゥストラが膝をついているのを見た。
「あなたは何をしてくれようというのか?」と、男はやっと言った、「わたしは、悪魔がわたしの小股をすくうだろうということを、前から知っていた。悪魔はいまわたしを地獄に引きずってゆく。あなたはそれを防いでくれるというのか?」「わたしは誓って言う、友よ」とァラトゥストラは言った、「あなたが言っているようなものは何もかも存在しない。悪魔もなければ、地獄もない。肉体よりもあなたの魂の方が、はやく死ぬだろう。 もう何も恐れることはない!」(同上、、P27)

 創造者の求めるものは道づれであって、死体ではなく、 また畜群や信者でもない。創造者は相共に創造してくれる者を求める。かれらは新しい価値を新しい石の板にしるす者である。

 創造者の求めるのは道づれであり、相共に刈りいれをしてくれる者である。創造者の眼前ではすべてが熟して刈りいれを待っているから。しかしかれの手もとには百の利鎌がない。 そこでかれは穂をむしりちらして、向っ腹をたてているのだ。
 創造者の求めるのは道づれであり、自分の鎌を研ぐことを知っている者である。かれらは善悪を否定する者、軽蔑する者と呼ばれるだろう。ほんとうはかれらは刈りいれる者であり、祝う者なのだ。同上、P33)

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