棟方志功は「板画家」です。板から生まれる画という意味で、棟方は自らの版画作品を「板画」と称しました。そしてその一点一点を、お遍路さんがお寺に納めるお札になぞらえて、「柵」と表現しました。棟方は「一柵」「一柵」に想いを込め、生涯の道標を置いて行くように制作を続けました。
山を描けば山に向かい、花を描けば花に向かって、棟方は手を合わせました。これは絵を描き始めた青年時代から晩年まで終生変わらない習慣でした。万物の中に神や仏の姿を見、その命に感謝を捧げることは棟方の本質です。
(中略)
一方で棟方は、言葉から発想が湧き、作品が生まれる作家でもありました。非常な読書家で、多くの文学者や歌人俳人たちと交流して、彼らの作品を板画の中に展開しました。物語を絵巻仕立てにしたものや本の挿絵は棟方の真骨頂とも言いましょう。
このところを読んで、著者は<棟方は「一柵」「一柵」に想いを込め>て制作を続けました、と書いていますが、私には、<棟方は「一柵」「一柵」に”祈り”を込め>て、と思えてきました。そして、信心というものに何か崇高なものを感じてしまいました。
作品集の中で気に入ったのは「弘仁の柵」と「門世の柵」です。棟方による解説を読み、いっそう好きになってしまいました。「裸体の、マッパダカの顔の額の上に星をつければ、もう立派な仏様になって仕舞うんだから、ありがたく、忝けないんですね。それが、ホトケさまというものなのです。その額の星がつくと付かないので、タダの素裸の女であったり、ホトケサマに成り切ったりするという大きな世界は、うれしいものです。板画という大世界こそ、そうしたモンなんです」という。やはり、仏様には”第三の目”が欠かせないようです。ここで気づいたことですが、仏様には「第三の目でのみ見える霊性」が備わっていると考えるべきなのかもしれません。
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| 「弘仁の柵」 |
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| 「門世の柵」 |


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