一九五一年一月二七日午前五時四四分、ネパタ実験場の上空で、核爆弾が炸裂した。ネバダで最初の核実験である。実験場の東約一八〇キロ、ネパタ州バンカービルにあるグレガーソン家では爆風で窓ガラスが吹きとび、壁に亀裂が走った。家族九人はバジャマ姿で外へ飛び出し、車で近くの丘に避難した。やがてピンク色の放射能雲が漂ってきて、家族の頭上をこえてユタ州南部の方向に流れていった。
ネバタ実験場が設けられた時、人口が少ないという理由から、核実験は風が北東すなわちユタ州南部に向かって吹くときだけ行なうことが、決められていた。
以来、一九五八年まで一〇〇回の大気圈内核実験が行なわれ、死の灰が流れたネパタ州北郎、アリゾナ州北西部、ユタ州南部は「風下の町」とよばれた。政府は「核実験は安全」と宣伝し、住民に核実験の観察を勧めた。放牧中の羊の大量死の後、白血病、ガン、甲状腺障害などが住民の間に広がっていった。
一九七九年、約一二〇〇人のがん患者と遺族は、「ガンは核実験が原因」として政府に対し総額二〇億ドルの損害賠償請求訴訟を起こした。八四年の一審は勝訴したが、八七年の二審では敗れ、裁判は最高裁にもちこまれた。しかし今年一月一一日、最高裁は「政府に賠償支払いの義務なし」との判決を下し、被害者住民の訴えを棄却した。
ネバタ実験場での地下核実験は、八七年末まで公表六一六回(未発表の極秘実験が一一七回あるといわれる)。米ソ核軍縮の兆しが見えはじめてはいるが、核実験は止まず、約一七万人といわれる風下地域の人々は、いまなお放射能に蝕まれている。風下地域の人々は核実験停止を訴えながら、被害者の救済を求めて、議員立法による法案を成立させようと運動をすすめている。写真と文 豊崎博光(『月刊社会党』1988年5月、グラビア)
「行動の先に希望がある。行動を続けることで未来は切り開かれる」(サルトル) 「人間は進化する存在。今の自分を超えて、創造的であり続ける『超人』を目指せ!」(ニーチェ) こうして社会に発信するというささやかな行動を通じて、一歩でも二歩でも、未来を切り開いていける存在でありたいです。
2024年1月20日土曜日
住民無視の核実験強硬の記録
本当は、別に記事を読みたくて取り寄せた『月刊社会党』でしたが、「ネバダ核実験場の惨禍」グラブビア記事に釘付けになってしまいました。住民の被曝などお構いなしに、なんと、「住民に核実験の観察を勧めた」というのですから、”開いた口が塞がらない”とはこのことです。これが米政府、米軍の正体であることは明白です。さらに「最高裁は『政府に賠償支払いの義務なし』との判決を下し、被害者住民の訴えを棄却した」という事実も、日本の最高裁と同じようで見逃せません。忘れられては困ることなので紹介します。
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