吉本隆明が膨大な数の著書を読み込んで、それらを評論しながら身につけていたらしいと『新・書物の解体学』(吉本隆明著、メタローグ、1992年)を読んで知った。彼の”詩の評論”というものを初めて読んだが、その的確な評論の内容と、その文体とに惹かれ、より一歩深く、吉本隆明の思想世界に入り込むことができたように思えた。その詩と評論は以下の通りである。
五月!
ふるさとへ帰りたいのう。
ふるさとにかへって
わらびがとりに行きたいのう。
わらびをとりに行って
谷川のほとりで
身内いっぱい山気を感じながら
ウンコをたれて見たいのう。
ウンコをたれながら
チチッ チチッ となく
山の小鳥がききたいのう。(詩集「野』「ふるさと」)
啄木でいえばちょうど「病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあおぞらの煙がなしも」のようなものだ。だが啄木のうたは、故郷喪失者が都会の生活に疲れたという位置で、ふるさがうたわれている。木山捷平の詩も都会生活に疲れたものの歌だが、故郷喪失ではない。故郷はこの詩ではじぶんが同化してそのなかで肉体を融かしてしまえる自然の別名だといっていい。「ふるさと」は家郷という意味と肉体がそこに同化して安心できる原郷という意味を二重にもっている。たしかに故郷が喪はれているのを回復したい願望の詩なのだが、それはじぶんの生理を融け込ませてくれる自然をもとめる願望にあふれている。「ふるさと」はこの詩人を安堵させくれるものとしてして求められているのだが、その安堵は生活の安堵でもないし、感覚の安らぎでも、情念の充足感でもない。もっと身体にそくした生理の安堵ともいうべきもので、それが終りの五行になっている。啄木にはこうはうたえない。「ウンコ」という表現が非詩だからではなく、生理の解放感を故郷の自然に求める気がさらさらなかったからだ。p222
ここでいうところの「故郷喪失ではない。故郷はこの詩ではじぶんが同化してそのなかで肉体を融かしてしまえる自然の別名」「肉体がそこに同化して安心できる原郷」としての「ふるさと」という捉え方、その「ふるさと」概念が私には新鮮だった。そこに日本的な感覚を見出したのではないかと思った。しかし、「身体にそくした生理の安堵」という表現は、いまのところ理解できなかったが、改めて考えると、かつて生まれ育った家に帰ったときの安堵感というものに近いものかもしれない。それにしても、よくこれほど深い読みができるものだと感心する。
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