核兵器禁止条約に、日本政府は署名していないし、する意思もない。今までは、漠然と、「米国の核の傘に守られているからだろう」というくらいの認識だった。しかし、産経新聞の「【主張】核兵器禁止条約「署名せず」が日本を守る」を知って、核兵器禁止条約に背を向ける人たちの根深さを知った。「核抑止の備えを一方的に解けば、放棄しない国の前で丸裸になる」というのだ。
今の科学技術の水準では、外国からの核攻撃を防ぐ確実な方法は見つかっていない。核兵器による反撃力を自国または同盟国が持つことにより、核攻撃やその脅しを抑止することが必要だ。本当にこれでいいのだろうか。日本国民は核の脅威から守れるのだろうか。守れる訳がない。そうした現実を知るべきである。「恐怖の均衡から均衡の恐怖へ」という主張は、1961年のものだが、現在でも立派に通用する。
戦後の日本は冷戦期から今にいたるまで、核の脅威にさらされてきた。歴代政権は、国防に核抑止力が不可欠との立場をとってきた。それを自国では用意せず、日米安全保障条約に基づく米国の核戦力に依存してきた。
核抑止の備えを一方的に解けば、放棄しない国の前で丸裸になる。もし全核保有国が放棄しても、その後に核武装する国やテロ組織が現れる恐れがある。
核禁条約に加わることは結果的に、日本国民を核の脅威から守る核抑止力の効果を減じさせることになってしまう。(【主張】核兵器禁止条約「署名せず」が日本を守る - 産経ニュース」より)
現在は、今までの「恐怖の均衡」という認識から、核兵器を持っていること自体が恐怖になっているという認識、「均衡の恐怖」という認識へ変えるべき、というのだ。こうした主張こそ、日本を守る道である。
最近の数ヵ月の中に絶対に明瞭になったことは、「均衡」と「恐怖」という言葉が正しく理解され処理されないかぎり、世界の平和は非常に危険な状態にあるということである。
ここ数年にわたって、われわれは正統派的な軍事分析の専門家から、世界は「恐怖の均衡」のおかげで大きな核戦争に至らないように保障されているのだ、と聞かされて来た。「核兵器保有国群」(nuclear club)に属する大国は、核戦争が口火を切るということは、それだけで、少くとも北半球が一掃されてなくなることにほかならない、という理由から、どの国もあえて他の大国を攻撃しようとはしない。
「だが」これまでほとんど、十分真剣に考慮されずに来たことは、正にこの「恐怖の均衡」そのものが、大国間の核戦争に関連して「均衡の恐怖」を強めて来た、ということである。いいかえれば、それが、世界の勢力均衡における一切の不利な変化 ―― もしくは予め諒承され割引されてなかったような諸変化 ―― に対する、恐慌的な反応を強めてきたということである。そのことは、朝鮮で、ラオスで、エジプトで、また一九六一年にはキューバで、繰返し証明された。(アンドルー・ロス「恐怖の均衡から均衡の恐怖へ」『世界』1961年7月号、p125〜126)
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