2021年3月21日日曜日

日本兵に孫が殺された沖縄戦の悲劇

  沖縄戦の悲惨な話は、悲惨だったというだけで、どのようなものだったかは、具体的に知らなかった。『沖繩の島守 内務官僚かく戦えり』(田村洋三著、中央公論新社、2003年)を読んで、ようやく、どれだけ悲惨だったかの一端を知ることができた。目の前で、日本兵に孫が殺された証言記録「オバアは目の前で孫が殺されても、恐ろしくて声を出して泣くことも出来ない」を読んで、オバアの心情が痛々しく伝わってきたからである。どうしても、殺された子と、自分の可愛い孫たちとがダブってしまうからだ。
 戦後70年経っても、なぜ沖縄の人たちは、日本(兵、日本の制服組官僚が日本兵とダブってしまう)に苦しめられなければならないのだろう。それは、まだまだ憲法の力が弱いからに違いない。だからこそ、もっともっと憲法の力を強めなくてはいけない。守るのでは弱すぎる。国民みんなが憲法の素晴らしさに気づかなければならない。つくづくと、そう思う。

 再び山里和枝が苦渋に顔をゆがめながら、話す。
「友軍の兵隊が避難民のところへ、食糧あさりに来るのです。住民は皆、虎の子の食糧を小さな包みにして持っていましたが、銃剣で脅して、それを取り上げて行くのです。おまけに住民はイモやサトウキビすら取りに出られなくなり、飢えに苦しみました」
「糸満のオバア(お婆さんの庶民的な呼び方)が上は七歳、下は四歳ぐらいの二人の男の孫を連れて川下にいました。孫は「ハーメー、サーターカムン(お婆ちゃん、黒砂糖が欲しい)」と言って泣いていました。オバアは手ぬぐいにくるんでいた命の綱の黒砂糖を少しずつ孫に与えていたのですが、食べてしまうと「ナーヒンカムン(もっと欲しい)」と泣くのです。すると、兵隊がやって来て「泣かすなッ。この壕に人が居るのが敵に知られてしまうじゃないか。今度、泣かしたら撃つぞッ」と脅しました。気配を察した子供は、その時だけは黙るのですが、また泣く。兵隊が再びやって来て「いくら言っても分からんのか。なぜ泣かすのだッ」と言い、理由がわかるとオバアの黒砂糖を取り上げました。その時、下の子が「これは僕らのだ」と言って兵隊に飛びかかったのです。兵隊はこの子を銃で撃ち殺しました。オバアは目の前で孫が殺されても、恐ろしくて声を出して泣くことも出来ない。回りの人たちも皆、シーンと静まり返っていました」
「それからは赤ちゃんが泣いても、周囲の人たちが「子供を泣かすなッ」と母親をしかるのです。泣かすなと言われても、赤子は泣きます。よく泣いていた赤ちゃんが急に静かになったな、と不思議に思っていたら、「たまりかねた母親が口におしめを押し込んだ」というヒソヒソ話が伝わって来ました。この時から私たちは敵は米軍でなく、友軍だと思うようになりました。県民はありったけの協力をした揚げ句、土壇場で裏切られたのです。私が豊見城の海軍外科爆からこの壕へ向かっていた時、逆に南から北上して来る避難民に会いました。「なぜ敵の居る方へ行くの?」と聞くと「友軍に銃を突きつけられ、わずかな持ち物を取り上げられ、壕を追い出された。ウッター(あいつら)に殺されるより、自分の屋敷で艦砲にでも当たった方がまし」と吐き捨てた言葉が忘れられません」(p380〜381)

 


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