少しずつ『カラマーゾフの兄弟』を呼んでいるが、三男のアリョーシャは、「寛容」という形容すべきなのか、「忍耐」のようで、単なる「忍耐」でもない。不思議な、愛すべき存在、誰からも愛される存在として描かれている。列挙すると次の通りだ。
アリョーシャという人間は、何があっても人を非難したりせず、すべてのことを赦していたのではないか――もっともそのおかげでひどく悲嘆に暮れることはよくあったが――とさえ思える。それどころか、だれかに驚かされたり動揺させられることもなかったほどで、こうした性格はごく若い頃から変わらなかった。 (Note:許す心?)
アリョーシャはずっと、みんなの人気者といってもいいほど学友たちから好かれていた。元気にとびまわったり、楽しそうにしていることはめったになかったが、それはこの少年が陰気な性格だったからではなく、むしろ逆に穏やかで澄みきった心をしているからだということは、だれでもひと目見ただけですぐにわかった。(Note: 「澄みきった心」って、どんな心だろう)
アリョーシャは、侮辱されたことを根にもつようなことはなかった。だれかに侮辱されたとしても、一時間後には、侮辱した相手から話しかけられればふつうに返事をするし、自分からその子に話しかけることもあった。(Note:こんなになれればいいのい)
アリョーシャは、それを振り払って床に倒れ、横になりながらもどうにか耳をふさごうとするが、そういうとき彼はひたすら口をつぐみ、何か悪態をつくでもなく、ただ黙ってこの仕打ちに耐えるのだった。(「忍耐」のようで、単なる「忍耐」でもない)
そもそも彼は、金の価値というものをまるきり知らなかった(もちろん比喩的な意味でだが)。頼みもしないのに小遣いを与えられたりすると、どう使ったらいいのかわからないまま数週間がすぎてしまうこともあった。
いっぽう彼の世話を焼こうという者は、それを苦だと思わないどころか、むしろ喜びと感じるかもしれない。
よく言われることに、同じ刺激、例えばちょっとした暴力や悪態に対する反応は、選ぶことができる、というのがある。反射的にきめって反撃することもできれば、アリョーシャのように、黙って耐えることもできる。しかし、この小説を読んだ限りでは(この小説では)、選んで耐えるというよりは、そういうものだと観念してしまっている。他の選択肢を知らないと言った方が良い。と、ここまで書いてきて思い出したことがある。
動物でも人間でも、悪い刺激があっても「それはどうしようもないことだ」と学習してしまうと、決して争うことがなくなる。抵抗しなくなる。そういう心理学の実験だ。アリョーシャは、どうしようもない父親の元で、何かを学習してしまったのかもしれない。我々も、悪政に慣れてしまわないよう気をつけないといけない。
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