2020年2月8日土曜日

焼けただれみとりもあらず逝きし児の

 朝日新聞(2020年1月31日)のコラム(ひと)で、原爆手記「星は見ている」の朗読を日米で続ける俳優、曽我潤心さんのことが紹介されていました。「被爆前夜の広島で、ともに星空を見上げた13歳の息子を偲(しの)んで母が書いた文章を、一文字も省かず、初めから終わりまで、33分かけて読む」という言うのです。
 このコラムを読んで、「星は見ている」の存在を知ったのですが、どんな内容なのか知りたくて、図書館で探し、読んでみました。そして、「使える核兵器としての小型核弾頭」が登場してきた今こそ、原爆で我が子を亡くした親の悲痛な叫びに耳を傾けるべきではないか、と思いました。それで、一部を紹介します。

1、お母ちゃん、顔が見えない
     故渡辺一策・久衛の母 渡辺重子

   吾子の歳 九年かさねて 原爆忌
   炎天や 吾子のかたりし 道を行く
   墓碑に 水さらさら流し ぬかずきぬ


 原爆忌を迎えるたび、いまさらのように胸はうずき、何時ともなく、じっと追憶にふけることが多く、ふと我にかえって慌てて仕事の手を動かすしまつ。あれから九年を過しては来たけれど、数々の思い出を胸にして、どうにも広島をはなれる気もなく、ひたすらに御霊にぬかずくのみ。
 あの日、皆の出かけた後、私は台所にいた。その時お隣の庭木に、マグネシュームの光のかたまりのようなものが、スーと落ちたので、アッとその方を向いた。これは格別燃えもしなかったが、とたんにものすごい爆風で、砂は顔を叩きつけ、棒立ちになったまま、しばらくはどうすることも出来ない。やっと気をとり直し、向きを変えたが、やはり動くことも出来ず、そのまましゃがみ込んでしまった。(「星は見ている」
『日本の原爆記録5』家永三郎〔ほか〕編集、日本図書センター、1991年、p23) 

2、見つからない死体
     故佐々木研治の母 佐々木乃文江

 研坊! 原爆にあわなければ、あなたはいま医大の二年生です。一中一年生であなたの一生は終ったのだけれど、私には、毎日あなたの生長して行く姿がうつり、いまは医大生として私の心の中に生きています。
(中略)
 私は、先日大田洋子の『人間襤褸』という本を一夜で読破して、朝まで泣き明かしました。あの本の中には、中学生が原爆にあって次々と悲惨な目に合う場面の数々が、実にうまく描かれている。あなたはその中のどの状態で息を引き取ったのでしょうか
 ああ、私も原爆で全身に火傷を負い、歩行どころか、身動きも出来ない状態だったのです。でも、ひょっくり私を探しに来るのではないかと、身も細る思いで、八日も、九日も、十日も、待って待って幾夜か眠れぬ長夜を過しました。十一日になってやっと歩けるようになった時、原爆後の広島をはじめて見る私の目前には最早広島の名残りは何処にも残っていませんでした。ああ、これでは研坊は生きていないと諦めるほか仕方がなかったのです
 あなたの最期は今もって判らない。せめて即死であってくれと祈るばかりです。親思いのあなたが自分の怪我も忘れて、「母ちゃん、母ちゃん」と言いながら、幾日も生きていたとしたら、私は胸をつき刺したいほどいても立ってもいられない(同、p37~39)


3、転がっていたおむすび
   故益田健史の母  益田美佐子

   一筋に 国に尽すと 気負いつつ 瑞々しき生命を 捧げまつれり


 ああこの汚水を知らぬ瑞々しい生命を、み国に捧げまつるこそ、男児の本懐ではないか。心ははやる、夢ははや戦場に、はたまた工場に馳せめぐる」との健気にも純真な一文を残して、二年の二学期を最後に、どのクラスにも魁(さきが)けて己斐の飛行機工場へと動員され、当日堺町附近の家屋疎開に駆り出されて、遂にあのむごたらしい原爆の犠牲となり、それでも火傷の身でよく猛火のさ中を、己斐国民学校まで友人数名と逃れて、そこで遂に両親にみとられることもなく、十五才を一期として、あの世へと逝ってしまった、私たちのたった一人の愛児、健ちゃん! あの凄惨な烈しい状況の下で、全身焼けただれ、皮膚は剥げ垂れて、どんなにか苦しかったであろう。臨終にも、あなたは、何時も心配してくれていた長病みのお父さんのこと、そして私のことを、きっと思い案じてくれたことでしょうね。それを思うと、今も私の胸はかきむしられるようです。

   焼けただれ みとりもあらず 逝きし児の いまわの思い 想う切なく

 ああ! もう、たった一時間ほど早くあなたを見出すことが出来ていたら、この世で、もう一度会え、臨終のみとりも出来たであろうものを!

 健ちゃん! お母さんはね、あの地獄絵のような阿修羅の巷を、狂気のようになってかけずりまわり、死体という死体を覗きこんだり、負傷者の群の中を探しまわって、やっと己斐国民学校へ辿りついたのでした。が、最初行った時には、遂にあなたを見出すことが出来ず、きっと工場の方へ行ったのかも知れないと、工場に行き、そこでも見当らないので、また引き返して、学校へ行ったのです。
 その時、顔もすっかりむくんでしまい、腕の皮膚はだらりと剥げ下がって赤い筋肉が露出し、全く目もあてられないほど痛々しく変りはて、見分けもつかぬ、そして、もうこと切れてしまっているあなたに出くわしたのです。ただわずかに、紛れもない帯革のお父さんのアルファ・オメガ会員章のはいったバックルと、履いていた革靴とで、やっとあなたと確認することが出来たのです。
 涙さえ出ないほどの驚きと悲しみとに、われを忘れて触れた私の手には、あなたの身体は、まだ温みが残っているように感ぜられ、隣に寝ていられた軽傷の若い女の方にきいてみたら、一時間ほど前にこと切れたとの悲しい言葉。私は、天地が一瞬に崩れて、眼の前がまっ暗になった感がして、あなたの亡骸にとりすがって咽び泣いたのです。私はもうすっかり転倒していたのでしょうか、あの女の方のお名前をきいておくことも忘れていて、後からもう一度お訪ねして、あなたの最期の様子をもっと詳しく聞かせて頂きたいと思ったのでしたが、それも出来ませんことは、本当に残念です。
 それでも、あなたが、五、六人の同級生と一緒に逃げてきて、代る代る水を汲んできては飲ませ合い、励まし合って、少しも苦しみを訴えるものもなく、「なんの、これくらいのことで死んでなるものか」と言い合っていたとのことを聞いて、その天晴れな最期の様子に感激し、またしても涙を新たにするのでした。
 まだ生きていた一人の同級生が、「益田君が逃げようと励ましてくれたので、恐ろしい火の中を一目散に走り抜けてきたのです」と言っていました・本当によくヽ最後まで友人のためにも尽してくれましたね。
(中略)
 広く全世界の人類への尊い犠牲であり、警告でもあったのです。愛によって一つでなければならない人間同士が、互いに憎み合う、殺し合う戦争。ああ、私は戦争を呪います。戦争さえなかったら、私たち三人は、いま平和に、楽しく、人のため、世のために働いていることが出来たでしょうに。全世界は、私たちと同様な運命に泣いている人が、如何に数多くいることでしょう。
 あなたが三才の時、アメリカの大陸を横断して、遠く西部で静養していられたお父さんのところに行く折、あなたを連れて行って下さったレイソ博士は、私から、あなたの原爆死を報じて、一緒に送ったあなたの写真を、いつも自分の机上に飾って、アメリカが原爆を使用したことへの懺悔と、戦争を二度と地上に起さないようにする努カヘの、自分の心の笞とする、といってよこされました。いま広島には、あなた方の魂が結晶して、広く全世界の平和を愛する人たちの協力により、立派な平和記念聖堂が建ちつつあり、ノーモア・ヒロシマズの声が全世界に響きわたろうとしています。
 しかし一方、世界は再び第三次大戦の暗雲につつまれて、銃砲の響きが無気味に聞こえて来るのは残念でたまりません。どんなことがあっても、あなた方の捧げた尊い生命を、犠牲を、無駄にしてはなりません。生命のある限り私たちも、祈り且つ努力致します。だから健ちゃん、どうぞ安んじて、天上の生活を楽しんで下さい。そして神様のお膝もとで、平和のために祈って下さいね。
 

  瑞々しく ささげし吾子の 生命なり 高く鳴らしめ 広しまの鐘(同、p14~22)

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