2021年2月24日水曜日

人は「おめでたい空想のとりこ」になりやすい

 せっかく防水のKindleがあるんだから、と、風呂で『カラマーゾフの兄弟』を読み始めた。その場で、これはという文章に印をつけたり、ちょとした感想も書けるので便利だ。初めに印をつけたところは、裕福な家に生まれた妻アデライーダが、どうして、呑んべいで、どうしようもない父フョードルと結婚したのかを説明したところだった。
 なぜか? 
「彼女は、たとえ一瞬にせよ、たんに居候の身にすぎないフョードルが、よりよい未来へ向かう過渡の時代に生きるこのうえなく勇敢でシニカルな男性のひとりであるという、おめでたい空想のとりこになった(そのじつ、彼は腹黒い道化でしかなかったが)。おまけに、事が駆け落ちで落着するという点も刺激的で、それがいたくアデライーダの興をそそった」からだったのである。この言葉を受けて、「こういう人はいつもいる」とメモしたが、「おめでたい空想のとりこ」になって行動してしまうことは、今でも身近にもあるものだ。
 改めて気づいたことだが、無謀にも、国力で圧倒的な差があった米国と戦争を始めたのも、今に至っても核の傘に依存して世界の趨勢に背を向けているのも、「おめでたい空想のとりこ」が、大いに関与しているに違いない。この作品には、こうした人生の真実が描かれているから、名作として読み続けられているのであろう。
 それでは、人は、なぜ「おめでたい空想のとりこ」になりやすいか。どういう場合に「おめでたい空想のとりこ」になりやすいか。それも、この小説に書かれていた。「妻アデライーダがとった行動は、あきらかに他人の思想の受けうりであり、これまた、『囚われとなった思考のいらだち』の結果だった」とあるように、「他人の思想の受けうり」を続けて、自分の頭で考えないことが問題なのである。戦前と違って現在は、絶えず相反するふたつの道が示されており、どちらが良いか、どちらが真実に近いかを選ぶことができる。自分の頭で、しっかり考えて選びたいものである。

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